魅世の作品

 2月13日、みぞれのち晴れ

  とうとう明日か・・・・・。

    家の外は、雨が降っていた。いや、違う。みぞれだ。空を見上げながら、私は思う。雪か雨か、はっきりすればいいのに。中途半端なみぞれは、今の私に似ている。どうしようもない苛立ちを覚えた。
 手に息を吹きかけながら、私は町中をさまよい続けた。そのうち、足がいうことをきかなくなり、人影のまばらな図書館前の公園のベンチに腰を下ろした。
 公園にいた人たちは、次々と急ぎ足で去っていった。
 いつの間にか、公園の中にいるのは私ひとりになっていた。
 手が、足が、そして体中が冷えてゆく。心までもが、冷えきってしまいそうだった。今、凍ってしまったら、一生とけないような気がした。だけど、どうしたらいいのか、今の私には分からない。私はベンチの上にうずくまった・・・。

 

 

 

「絶対言うべきだ。言うんだよ?いいな、分かったか?」

「・・・はい」
 どうして赤の他人とこんなことを約束させられなければいけないのか。少しむっとしたけれど、こんなにびしっとアドバイスをしてくれる人は初めてだった。何だか気持ちが爽やかになった。
 私はコーヒーの缶をゴミ箱に投げ入れ、言った。
「いろいろありがとうございました。明日の同じ時間、きっとここに来ます。私はもう大丈夫ですから、心配しないで待っててください」
「健闘を祈る」
 高見さんはそう言うと、図書館に戻っていった。
 健闘を祈るのは簡単だけど、実際に戦うのは大変なんですよ。私は心の中で言った。
 そして、ゆっくり深呼吸をしてから、公園を出た。

 

  

ぽたりぽたりと、絨毯に水滴が落ちる。私はベッドに倒れた。枕に顔をうずめ、リビングにいる親に聞こえないようにひっそりと泣き、静かに鼻をすすった。涙は枕にどんどんしみ込んでいった。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。起きたときには、あたりは真っ暗で、すっきりと晴れた空には無数の星が輝いていた。
 私はベッドから起き上がり、水を飲みにリビングへ向かった。リビングの戸を開けると、ソファに座っている黒い人影が見えた。その人影は、ベランダの向こうにある夜空を見上げながら、たばこをふかしていた。
 私はゆっくりとその人影に近づいていった。
 すると、その影がこちらを向いた。逆光で、表情はよく見えない。
 私はその人の隣に座った。やわらかい月の光が部屋の中に入ってきて、青白く壁を照らしていた。
 なぜか、とても静かだった。今夜は、どうしたんだろう。車の走る音も聞こえない。本当に、何も、音というものが無かった。
 海の底深くにいるような、あるいは、何億光年も向こうの宇宙の果てにいるような、とてつもない孤独と、安心感と、そして胸の奥から込み上げる、懐かしさのような気持ちを覚えた。
 それにしても、不思議な夜だ。昼間はあんなに曇っていたのに。いや、それだけじゃない。何だか、空気がすごく澄んでいる。昼間のこの家には無かった何かが、今はあった。
「お前、幸せだったか」
 突然、どこからかお父さんの声が聞こえてきた。驚いて隣の父の顔を見る。しかし、父は遠くを見ながら、相変わらずたばこをふかしている。
「お前、幸せだったか」
 その声は、もう一度繰り返す。私は、その声が自分の心の中から聞こえていることに気づいた。
 小さいころの、お父さんとの思い出が心に浮かぶ。よく、一緒に公園で遊んだっけ。そうだ、お母さんも一緒だった。三人で手をつないで。滑り台に乗って。ごく普通の、平凡な家族だったけれど、毎日、愛情を感じていた。
 本当に、いつから変わってしまったのだろう。いつ、道を間違えたんだろう。その日に戻って、そのときの自分に、だめだよ、間違ってるよって、教えてあげたい。
 でも、そんなことはできないし、仮にできたとしても、私にはする勇気がない。
 それに・・・。
 私は目を閉じ、自分の心の中に向かって、語りかけた。
「私はこの十七年間、十分幸せだったし、これからも、幸せだよ」
 静かに、隣の人の肩にもたれた。心の中には、幸福だけがあった。

 

次の日の朝起きたら、父はいなくなっていた。すべては、予定通りだった。どこへ行ったのか、私は分からない。多分、母も知らないんだろう。もう、お父さんとは、会うことも話すことも、手紙を書くことさえもできないんだろうな。荷物をまとめながら、部屋の中をぐるりと見渡す。ごくごく普通の、マンションの一室。今までずっと、私たち三人はここで暮らしてきた。今日までの私たち家族のすべてを、この壁や床が吸い取ってきた。
 壁に手を当ててみる。明日から、この部屋はどうなるんだろう。空っぽになるのかな。それとも、仲のいい家族が住むことになるのかな。どちらにしても、私は満足だった。
 コートとマフラーを羽織り、玄関に向かった。
「お母さん、ちょっと、出かけてくるね」
「そう。いってらっしゃい」
 外に出ると、空はやっぱり、曇っていた。
 私はコンビニに寄ってから、図書館前の公園へ行った。
 ベンチに座ってもう一度空を見上げた。昨日の夜のあの空は、いったい何だったのだろう。冷静に考えると、もしかしたらあれは、夢だったのかもしれない、と思えてくるのだった。
「やあやあこんにちは」
「あっ、高見さん」
 彼は約束を覚えていた。何だかそのことがおかしくて、思わず笑ってしまった。
「何?いったい何なの?いいことでもあったか」
「いえ。ぜーんぜん。昨日は人生で最悪の日だったかも知れません」
「何だ。で、言えた?」
「はい。バッチリです」
「そうか。それはよかった」
 私は空に向かって白い息を吐いた。
「昨日は、妙に静かな夜でした。不自然なくらいに」
「そりゃきっと不自然だったんだな」
「は?」
「何でもない。気にしないで」
「そうですか。あっ、これ。昨日のお礼です。今日、バレンタインデーでしょう」
 私はコンビニの袋に入った板チョコを高見さんに渡した。
「これはこれは・・・なんとお粗末な」
「ごめんなさい。包装する時間がなかったんです」
「と言いますと?」
「私、今日引っ越すんです」
 高見さんはコンビニ名が書かれた袋を見ながら「なるほど・・・」とつぶやいた。
「だから、本当はこんなことしてる場合じゃないんです。でも、やっぱりお礼は言わなきゃ、と思って」
「そりゃあどうも」
「じゃあ、おいしく食べてくださいね」
「・・・ほんとのこと言うと、僕、甘いものだめなの!」
 高見さんは私に聞こえるよう、大げさにひそひそ声で言った。
「だったら、無理にでも食べてください」
「そうしますわ」
「はい。それじゃあ、さようなら。短い間でしたが、お世話になりました。また気が向いたら、ここの図書館に来ますね」
「ぜひぜひ来てください。利用者少ないんですよ。できれば友達とかさそって」
「はい」
「じゃ、元気でね」
 私はベンチから立ち上がり、公園を出た。
 生きていると、ちょっと悲惨なできごとがある。心をえぐられるような苦しさを味わわなければいけないこともある。でも、それと同時に、助けだってちゃんとある。神様はすごい。もう少しで壊れそう、というところで助けを出す。それも、必ずすべての人に。助けが出ないうちはきっと、まだ自分が耐えられる領域なんだろう。
 私は冬らしいその真っ白な空を目に焼き付けながら、家までの道をゆっくりと歩いていった。

 

 

 

 

「ただいま」
 私は玄関で言った。しかし、お帰り、という返事は無かった。奥のリビングから聞こえるのはやはり父の怒鳴り声と母の悲鳴だけ。また発作が始まるのかな。そう思ったけれど、一向に始まる気配は無かった。私は、自分でも驚くくらい冷静になっていた。
 そっと靴を脱ぎ、廊下を進む。ゆっくりとリビングの扉を開け、私は静かに言った。
「うるさいんだけど」
 お父さんとお母さんは私の声に気づき、こちらを向いた。
「ごめんね。今、お母さんたち大事な話し合いをしてたのよ。もうすぐ終わるから」
「お前はあっちに行ってなさい」
 うそつき。話し合いなんかするまでもなく、離婚は決まってるくせに。
「うるさいんだけど」
 私はもう一度言った。父も声を荒げて繰り返した。
「あっちに行ってろ!」
「あなた!」
 母は父に向かって叫び、いい加減にしてちょうだいと頭を抱えた。私は高見さんの言ったとおり反抗してみた。
「死んじゃえ」
 つぶやいたつもりだったが、思っていたより大きな声が出てしまい、父と母は目を丸くして呆然とこちらを見つめた。一瞬、空気が凍りついたように感じた。そのとたん、それまで固まっていた何かが解け出した。
「どうして私のことを分かってくれないの!?私のこと考えてくれたことある!?私の気持ちになってみたことある!?私の幸せっていったい何なのよ!?
 全身の血が顔に一気に上ったような気がした。胸の奥で、息が詰まって苦しい。まぶたが熱い。
「どうしてこんなふうに壊れちゃったの!?
 出る限りの大声で叫んだつもりだった。でも、その言葉はかすれた息にしかならなかった。目に涙があふれ、視界がぼやけてきた。
「もう、やめようよ・・・」
 私は小さな声で言い、自分の部屋へと戻っていった。
 

 

 

 

 

 

「大丈夫?」
 はっとして顔を上げると、そこには、二十四、五歳くらいの男の人が立っていた。胸には「高見」と書かれたバッジがついていた。どうやら、図書館の職員の人らしい。
「あっ、すいません。大丈夫です」
 私は急いで立ち上がり、公園を出ようとした。
 しかし、その人が私の腕をつかんだので、私は立ち止まった。
「顔色が悪いよ。何かあったの」
 いいえ、何でもありません。そう言おうと思ったけれど、声が出なかった。息がつまり、のどの奥が苦しくなる。鼻の奥がつーんとする。
 ぽたり、と大きな涙の粒が一つ落ちた。すると、どんどん涙があふれてきた。
 胸の奥が痛くなり、息をするのが苦しくなる。また、発作が始まりそうだった。
「ちょっと、待ってて」
 そう言うと、彼は自動販売機に小銭を入れた。
 ゴトン、と音がして、ホットコーヒーが出てくる。彼は自動販売機からそれを取り出し、私に差し出した。
 いいんですか?私は涙をぬぐいながら、目でたずねた。すると、彼はにっこりと笑った。
 私は缶を開け、そのホットコーヒーを一口飲んだ。甘い味が、口の中に広がる。そしてそれ以上に、その暖かさが、私の体にしみていった。
 私はそれを、一気に飲み干した。いつの間にか、胸の奥の苦しさは消えていた。
 ふう、と私は白い息を吐いた。
「友人関係?」
 高見さんは私を覗き込んで言った。私は首を横に振り、言った。
「いえ。親の離婚問題です」
「なるほどねえ」
 高見さんは私の隣に座ると、空を見上げた。
「私が悪かったんです、多分。こんな子供だから」
 私はうつむいて言った。
「そうかな。君はそれだけ悩んでいるんだから、もう悪くないんじゃない?」
「そういう問題なんですか・・・!?
「家族なんだから、もっとぶつかり合うべきじゃないのかな。家族の間には、遠慮っていう言葉はあってはいけないと思う」
「別に、遠慮なんかしてません」
「いや、してるね。君、親に向かって怒鳴れるか?死んじゃえって」
「・・・言えるわけないじゃないですか」
 私は笑いながら答えた。しかし、高見さんは真剣だった。
「ほら、やっぱりだめじゃないか。反抗期なんだからもっと反抗しろよ」
「そうですかねえ。もう十分反抗してると思うんですが」
「いや、まだまだだね。このままじゃ君も家族もだめになるよ」
「もう、とっくになってます」
「だから・・・、このままでいいのっていうこと。崩れたまま終わっちゃって本当にいいのか?」
「・・・」