魅世の作品 禁止事項

禁止事項

 

男は、布団の上に寝転び、天井を見上げていた。
 薄暗いアパートの中に、ドンドンとドアをたたく音と、管理人の怒鳴り声が響いていた。けれども男は身動き一つしようとせず、ただじっと宙の一点を見つめていた。
 やがて管理人は大きなため息をつき、捨てゼリフを残して去っていった。
 男は起き上がり、手に取った瓶を見た。中に入っているのは睡眠薬だった。といって、ただの睡眠薬ではない。夕べ、近所のN博士宅に忍び込んで手に入れた新薬なのである。
 男はその薬の近くに置かれていた説明書を注意深く読むと、うっすらと笑みを浮かべた。
 この薬は、まさしく、おれがずっと探し続けてきたものだ・・・。
 
 その男は、一年ほど前から、、眠れない日々が続いていた。もともと神経質な性格ではないのだが、最近は、悪夢ばかり見ていて、ゆっくりと眠ることができずにいた。
 悪夢といっても、怪獣が襲ってきただとか幽霊が出てきただとかそんな子供じみたものではない。
 男は、夢の中で、いつも殺されそうになっていた。半殺しの状態で、目が覚める。朝からいやな気持ちで過ごすわけである。それが何日も続くのだから、とても仕事などする気にはなれない。その男はもともと不真面目だったので、くびになるまでにそう時間は要しなかった。
 夢の中で自分を殺そうとする相手は、いつも、身近な人間ばかりであった。三日前は友人、おとといはアパートの管理人、昨日に至っては兄であった。
 そしてみんな、少なからず自分に恨みを持っている人間であった。
 ばかばかしい。疲れているのだろうか、おれは。そう思い、神経科にも何度か通った。しかし、一向によくならない。そうしている間も毎日、夢の中で半殺しにされていた。そのうち、男は眠るのがいやになった。
 とうとう、男は眠る、ということができなくなった。

 そんな時、この薬を手に入れたのだ。
 その薬の効果、それは、夢のような夢が見られる、というものだった。この世の幸せというものをすべてあわせたような夢、それが見られるのだ。まさに夢のようだった。
 説明書には、水と一緒に一錠飲み、目を閉じればよい、と書いてあった。別に一度に二錠飲もうが三錠飲もうが体に悪影響はないのだが、薬の数には限りがあるので、一錠ずつがよい、とも書いてあった。
 ただし、最後に、注意書きが一つだけ書いてあった。
 夢の中で、人を殺してはいけない。
 なぜ殺してはいけないのかは書かれていなかった。でも、さほどたいした問題ではなかった。その夢は、幸せの塊のようなものなのだ。そんな夢の中で、しかもいたって正常な自分が、人を殺すわけがない。
 男はその薬を口に含むと、一気に水で流し込んだ。

 夢の中は、まさに幸せそのものだった。世界一幸せであるといっても過言ではなかった。
 豪華な食事、美しい妻、幸せな家庭が、そこにはあった。現実では絶対に手に入らない世界があった。
 男は、毎日、その世界を楽しんだ。

 そのうち、薬を使う頻度は増していった。一日一回が、二回、三回と増えていった。睡眠時間は、生活の半分を占めるようになり、やがて、一日のほとんどにもなった。
 夢の内容は、日に日によくなっていった。もはや、幸せ以上のものであった。
 それとは反対に、現実の生活は悪化していった。貯金は底をつき、家賃の滞納によってアパートを追い出された。男は公園のベンチで、星空を見上げながら薬を飲んだ。

 夢の中で、男は、妻に向かって言った。
 なあ、もっといい所に住まないか。ここじゃ景色も悪いし、ひとつ田舎に広い土地でも買って、のんびりと暮らそうじゃないか。
 そうね・・・
 早速、男は妻を連れて土地を見に行った。なかなかの土地だった。そこが気に入った男は、すぐにその土地を買うことに決めた。
 あら、近くに公園もあるみたいよ。行ってみましょうよ。
 妻は、男の手を引いて、公園へと向かった。公園の隅に、ベンチがあり、そこで一人の男が寝ていた。
 もしもし、大丈夫ですか。
 男はその人に声をかけた。しかし、返事はない。体をゆする。その男は、かすかにうなり声を上げた。恐る恐る顔を見た。そのとたん、男はわっと叫んだ。それは自分だったのである。
 妻も覗き込んだ。彼女もまた、悲鳴を上げ、男の後ろに隠れた。
 その人、悪魔なのよ。あなたに化けて、私たちの幸せを奪おうとしているのよ。
 妻は、震える声で訳の分からないことを言った。
 何を言っているんだい。
 でもそれ、あなたじゃない。その人を、殺さなきゃだめよ。
 妻がそういったとたん、男は、薬のことを思い出した。これは、夢なんだ。ここで、こいつを殺してはいけない。たとえ自分であったとしても、殺したことになるかもしれない。
 しかし、妻は、狂ったような目つきで、どこからかナイフを取り出した。そして、その男の心臓めがけて振り下ろそうとした。男はとっさに、妻の腕をつかんだ。
 まて!なにをするんだ!これはおれなんだぜ!?殺したらおれはどうなるか分からない!!
 放して!殺さなきゃいけないのよ!
 妻は暴れた。周りにはおかしな様子に気づいて人が集まってきた。
 やめろ!やめるんだ!
 二人はもみ合いになった。ナイフが振り回される。周りの人々はただ呆然と見ているだけで、何もしようとしない。妻はさらに暴れ、男も必死でそれを止めようとした。
 あるとき、ナイフが妻の胸に刺さった。崩れるように、妻は倒れた。男は急いでナイフを抜く。血がどくどくとあふれる。妻の顔は青ざめ、やがて、動かなくなった。
 殺してしまった・・・!!
 男は、禁止事項を破ってしまったのだ。急いで目覚めようとする。しかし、目覚められない。
 そのとき、ベンチに寝ていた男がむくりと起き上がり、落ちているナイフを拾った。
 そして、にやりと笑い、その刃先を男に向けた。
 あばよ・・・
 
 公園のベンチの上に、男が一人、横たわっていた。
 一週間前から、ずっと寝てるんですよ、あの人。
 何日か前、目を開けてボーっとしていたので、どうしたんですかって聞いたんですが、ただぶつぶつと何かをつぶやいているだけで・・・。禁止事項がああだこうだと言ってました。
 公園の付近の住民は、交番の巡査に訴える。巡査は公園まで行って、その男の体をゆすった。
 もしもし、大丈夫ですか。
 しかし、反応はない。すでに息はなく、男の体は冷たくなっていた。
 そばには、薬の瓶が、落ちていた・・・。