魅世の作品 過ぎし春の記憶

 

「いってきまーす」

 勢いよく玄関の扉を開け、外に出た。思い出したように、蝉がうるさく鳴く。

 私は、いつものように橋の欄干にもたれて、静かに流れる川を見ながら、一緒に登校する友人を待つ。風に髪をなびかせながら、静かに目をつむる。

 そのとき、風の音の中に、かすかにあの優しい声が聞こえたような気がした。驚いて目を開け、後ろを振り向く。

 しかし、あの人の姿はやはりどこにもない。

 川のほうに視線を戻し、もう一度目をつむる。すると今度は、よく聞きなれた明るい声が、向こうから走ってきた。目を開けると、照ってきた太陽が水面に反射してまぶしい。私はその声に向かって、思いっきり手を振り、走っていった。

 

 

 それは、私がこの地に引っ越してきて間もない、暖かい春のことだった。

 

 

 

 そのころの私は、ただ勉強をするためだけに学校へ行っていた。もちろん、好きでそうしていたわけではない。もともと引っ込み思案だった私は、クラスになじめず、一人で悩んでいたのだった。

 誰とも話さず、一人で時計を見ながら過ごす休み時間。親切なグループの人に「入りなよ」と言われて一緒に食べる、息の詰まるような給食の時間。逃げるように早々と校門を出る放課後。いっその事、学校へ行くのなんかやめてしまいたかった。でも、先のことを考えると、それはどうしてもできなかった。

 その日の朝も、学校に行くのが嫌で、家の近くの橋から川を見下ろしていた。すると、後ろから声がした。

「こんにちは」

振り返るとそこには、白髪交じりのやせた男の人が立っていた。最近どこかで見たことがあるような顔だったが、誰なのかはよく分からなかった。

「こんにちは」

とりあえず返事をしたが、心の中では相手を警戒していた。そんな私にかまわず、その人は聞いた。

「お名前は?」

 私が名前を言うのをためらっていると、彼は私の名札を見て、にっこりと笑った。

「ああ、最近引っ越してきた家のお嬢さんですか。私は隣に住んでいるものです」

 何だ、隣のおじさんだったのかと、私はすぐに警戒するのをやめた。彼はさらに私に尋ねる。

「学校には行かないのですか?」

私は目を伏せて静かに言った。

「行きたくないんです」

 私は再び川に目を移すと、小さくため息をついた。そのおじさんは、ほう、と言って私と同じように川を見た。

「行きたくない日もあるでしょう。そういう日は、こうやってのんびりしてみるのもいいかもしれません」

 ふと、彼が肩から鞄を提げているのを見て、聞いてみた。

「あの、おじさんは、仕事はないんですか」

「はい、この近くの中学校で働いています」

「・・・えっ?行かなくていいんですか?」

しかしおじさんはのんきに笑い、大丈夫ですよ、と言った。

私が黙ると、彼は話し始めた。

「こうやって橋の上から川を見下ろしていると、自分が流れているような気がしてきませんか?流れているのは、川のほうなのですが」

 その言葉を聞き、じっと川を見つめてみた。確かに、船に乗って流れていくような錯覚がした。

 そのうち、段々と目が回ってきた。

「うわ、気持ち悪い」

「はっはっは。気分が悪くなりますな」

「はい。でも、何だか面白いですね」

 さわやかな春の風が吹き、桜の花が舞った。

「今から走って行けば、まだ間に合いますぞ」

 ポケットから懐中時計を取り出し、おじさんは言った。

「本当は行きたいんです。でも、私はクラスにいるべき存在じゃないような気がするんです。何ていうか、私の居場所ってものがないんです。居場所がないのにいたって、ただ苦しいだけです。そんな場所で、一日過ごすのかと思っただけで、どうしようもなく不安になるんです」

「・・・私も、居場所がないと感じることはよくあります。たいしたこともしていないのに偉そうにしている、と思われているような気がして。でも、そんな時、自分のいない世界を想像するんです。そうすると、自分はとっても重要な役割を果たしていることが分かってくるんですよ」

「どうしてですか」

「私は、学校の時間割を管理しているんです。時間割がなかったら、どうなると思いますか」

 彼は時計を見ながらにやりと笑った。

「おじさん・・・!学校へ行ってください」

「あなたは行かないのですか」

 おじさんは橋の欄干にもたれて相変わらずのんびりしている。

「行きます!行きますから、おじさんも!」

「分かりました。走りましょう」

彼のその言葉を合図に、私たちはひたすら走った。

 坂道の前あたりで息が切れてきて、いったん止まった。後ろを振り返ると、すでにおじさんの姿はなかった。この近くの中学校って、いったいどこなのだろう。引っ越してきたばかりの私は自分が通っている中学校以外、知らなかった。

 

 

 その次の日も、そのまた次の日も、やっぱりおじさんは橋にいた。

 

 

 

 そして、私が学校に行くと言うまで、彼はそこを動こうとしなかった。

 なぜそこまでして私を学校へ行かせたいのかと聞いてみても、彼はただ笑うだけで何も言わなかった。

 

 

 そのうち、私は彼に何も言われなくても学校へ行くようになった。

 

 

 

相変わらずクラスに私の居場所はなく、毎日苦しい思いをしていたが、かといって家にいれば苦しくないわけではないということが、段々と分かってきたからだった。

「おじさん、私、これからは何があっても学校へ行きます。病気のとき以外は」

「ほほう、それは感心ですな」

「だからおじさんも、学校へ行ってください。おじさんがいないと、みんなが困るんでしょう」

私が真剣な顔で言うと、彼は吹きだした。

「はっはっは。そのとおりですな。いや、まったくです。分かりました。そうしましょう」

 それ以来、おじさんは、朝私に会うと、挨拶だけしてすぐに職場へ行った。もちろん、私も。

 

 

 ある日の学校帰りに、おじさんの家に寄ってみた。

 

 

 

 静かに門を開け、庭から中をのぞいてみると、おじさんが安楽椅子に座って本を読んでいた。そして私に気づくと、にっこりと笑った。

「やあ、いらっしゃい」

「仕事はもう終わったんですか」

「はい。今日は早めに帰ってきました。さあ、どうぞあがってください」

「おじゃまします」

 おじさんの後についていくと、書斎らしきところへ案内された。

 大きな本棚にたくさんの本が収まっていた。それでも収まりきらないものは、床に積まれていた。

「すごーい!こんなにたくさんの本を一度に見たのは初めてです」

おじさんはいつものようににっこり笑ってから、優しく言った。

「好きなときにここに寄って、どれでもいいから本を一冊持っていきなさい。クラスの全員があなたの存在を認めなくなっても、本だけはいつでも受け入れてくれます。休み時間にでも読むといい」

本はあまり好きではなかったが、私の目はすでに本棚のほうへ向けられていた。本には、私を包み込むだけの優しさと余裕があるような気がした。

「これにします」

 私は本を取っておじさんに見せた。分厚い歴史の本だった。

「ほう・・・。これはまた難しい本を・・・」

「難しいからいいんです。読むのに真剣になって、寂しさが紛らわせます」

「はっはっは。なるほどね。いいですよ。持っていきなさい」

私はそれを鞄に丁寧にしまい、おじさんの家を出た。

 

 

おじさんの言ったとおり、本だけは私を受け入れてくれた。

 

 

 

何もすることのない休み時間は、とても長く、苦しかった。でも、今の私には、本がある。

私は、自分の居場所がちゃんとある本の世界にいればよかった。何だか、クラスにいることが苦痛ではなくなってきた。今思うと、悩んでいたことがばかばかしい。私はいったい、何を恐れ、何に苦しんでいたのだろう。苦しみから抜ける方法を寝ても覚めても考え続け、それでも分からず苦しんでいたというのに、こんなに簡単な方法があっただなんて。

 

 

「こんにちは。本を借りに来ました」

 

 

 

「はい、どうぞ」

 奥からおじさんの声が聞こえると、私はすぐ書斎に向かった。

 いつものように、本棚の三段目にある「歴史の壺」シリーズのうちの一冊を取る。初めておじさんの家に来たときに借りた第一巻の「弥生・古墳時代編」から進んで、今はもう第五巻の「安土・桃山時代編」になっている。友達のいない私には、休み時間、帰宅後、就寝前、と膨大な時間があったので、どんなに分厚い本でもたいていは二、三日で読むことができた。

「ほう。もう信長と秀吉の時代ですか」

 いつの間にかやってきたおじさんは、感心だというように言った。

「えっ、そうなんですか」

「そうなんですかって、安土・桃山時代でしょう。安土は織田信長、桃山は豊臣秀吉の時代じゃないですか」

「へえ。知りませんでした。私、歴史はぜんぜんだめなんです」

「おや、そうでしたか。それでもあえて歴史の本を選んだと。よいことです」

彼はにっこり笑うと椅子に座った。私はぽつりと言った。

「最近、学校にやっと慣れてきました。私の居場所ができたのかな」

「・・・もしかしたら、クラスに居場所がないというのは、あなたの勘違いだったのかもしれません」

「え?」

「あなたの居場所は初めからあったのかもしれませんよ。あなたが気づかなかっただけで」

「どういうことですか?」

 しかし彼はその質問には答えず、いつものようにいたずらっぽく笑うだけだった。

 

 

 それから間もなくして、私に転機が訪れた。おじさんが言っていたのはこのことだったのかもしれない。

 

 

 

 その日もいつものように、学校帰りにおじさんの家に寄り、「歴史の壺」シリーズから一冊を選んで手に持ち、家を出た。川沿いの桜はもう散りかけていた。

 橋にもたれて空を見上げてみると、気持ちのよい青空があった。ぽかぽかと暖かい陽気の中で、時間は緩やかに流れていた。

 ふと、後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。驚いて振り返ると、クラスメートの女の子が立っていた。

「こ、こんにちは」

何を言っていいのか分からず、そんな不器用な挨拶しかできなかった。

「こんにちは。その本、いつも読んでるよね。おもしろい?」

「うん・・・。おもしろいといえば、おもしろいかも・・・。難しいけど」

「へえ。頭いいんだね」

おじさんといつか見たように、川の水面をじっと見た。頭の中から心臓の音が聞こえてくるような気がした。少し気を抜くと、倒れてしまいそうだった。

「いきなりこんなこと話していいのか分かんないけど・・・、私ね、前に、苦しいときがあったの。仲良くしてたグループの中でいじめられて。ある日突然仲間はずれにされちゃったの。周りにはもうそれぞれ仲良しグループができていて、いまさら他のグループに入ることもできなかった。別にみんなが私のことを拒んでいるわけじゃない。私をいじめている人以外は、私が寄っていきさえすれば、ちゃんと話にも入れてくれる。でも、できなかった。みんなに“いじめられている人”と思われるのが怖かったの。だからどんなにいじめられても、平気な顔してた」

私は彼女のほうを見て何度もうなずいた。彼女は、かつての私そのものだった。

「それから、学校が怖くなっちゃった。いじめがおさまって新しい友達ができても。いついじめられるかもしれない、と思うと怖くてたまらなくて。そんなときに、あなたに出会った。あなたを見ていたら、何だかそんなことどうでもよくなっちゃった。ありがとう。本当にありがとう」

「そんな、こちらこそありがとう。私なんかに、そんな重要な話をしてくれて」

「ううん。でね、一つ、お願いがあるの」

「お願い・・・?」

「うん。明日から、一緒に学校に行こう」

 一瞬、それが私の頭の中だけで聞こえた、幻聴なのではないかと思った。

「一緒にって・・・、友達とじゃなくていいの?」

「え?私たち、友達でしょう。同じクラスなんだから」

 そう言って彼女はにっこり笑った。

涼しい風が吹き、桜の花びらが一枚、ふわりと舞い落ちた。

 

 

「ついに友達ができましたか」

 

 

 

「はい」

 私は今でもその事実が信じられなかった。

「やっぱり、あなたの居場所はあったのですね。ずっと前から」

「そうですね。でも、半分はおじさんのおかげです」

「まさか。あなたがきちんとした人間だったからですよ。きちんとした人でなければ友達はできませんから」

「そうですか?でも、とにかく、おじさんには感謝しています。本当に、ありがとうございました」

「いえいえ。私は本を貸しただけですから」

 彼は私がどれだけお礼を言ってもそんな返事をするばかりだった。きっとこういうふうに感謝されるのが苦手なのだろう。

 私は本棚から「歴史の壺」シリーズの最終巻を取り出した。

「とうとう最終巻になりましたよ」

「早いものですな。歴史は得意になりましたか?」

「うーん・・・。それは分かりませんが、好きになったのは確かです」

「それはよかった」

「じゃあ、家に帰ったら早速読みますね」

「はい。そうしてください」

私は書斎の扉を開けた。最後に振り返り、何となく、私は言った。

「・・・おじさんに出会わなかったら、今の私はなかったと思います。おじさんに出会えて本当によかったです。私って結構運がいいんですね」

「それは私のセリフですよ。私も、あなたにずいぶん助けられました」

 何だか恥ずかしくなってしまった。

「あの、一つ聞いてもいいですか」

「はい」

「どうして、私なんかを助けてくれたのですか」

 すると、彼は優しく微笑んで言った。

「あなたが、助けを求めていたからです」

「・・・そうですか。あ、さようなら」

「さようなら」

 その言葉の意味はよく分からなかったが、軽く会釈をし、そのままおじさんの家を出た。

 

 

 次の日の朝は、なぜかおじさんに会わなかった。

 

 

 

 不思議に思ったが、時間がないので学校へ行った。

 次の日も、その次の日も、おじさんに会わなかった。風邪でもひいたのだろうか。さすがに心配になった。授業もまともに耳に入らなかった。

 今日の帰り、様子を見に行ってみよう。

 

 

 その日の帰り際、廊下で白髪交じりのやせた男の人の後姿を見た。間違いなく、おじさんだった。不思議に思いながら、私はその後姿を早足で追いかけた。

 

 

 

 いつの間にか、私は校長室にいた。しかし、おじさんの姿はどこにもない。きょろきょろと部屋の中を見回していると、ある一つの写真に目が釘付けになった。じっとそれを見つめる。額縁の中で、セピア色のおじさんが微笑んでいた。

 そのとき、校長先生が入ってきた。

「おや、どうしたんですか」

「あ、あの・・・、あれは、誰ですか」

「あの写真ですか?額縁に書いてありますよ。この学校の二十二代目の校長先生です。私が二十九代目ですから、そうですねえ・・・、今からだいたい、二十年前の方でしょうか」

「・・・そうですか。ありがとうございました・・・」

私は校長室を出て、そのまま走った。信じられなかった。何が何だかわけが分からなかった。これは夢なのかもしれない、と何度か思った。走って、走って、走った。もう息は切れなかった。

倒れこむようにおじさんの家に入った。家の中は静まり返っていて、人が住んでいる様子はなかった。

書斎の扉を開けると、中は何もない部屋だった。「歴史の壺」シリーズどころか本は一冊もなく、何十年もの沈黙が漂っているようだった。

床に一枚、紙が落ちていた。そこにはたった一言だけ、こう書いてあった。

“ありがとう”

 私はその場に座り込んだ。そして、いつまでもいつまでも、泣き続けた。涙は次々と私の頬を伝い、ぽたりぽたりと紙に落ちた。いつの間にかその文字は消え、それはただの真っ白な紙になってしまった。

 

 

「どうかしたの?」

 

 

 

 突然、声がした。私は急いで涙をぬぐい、声がしたほうを見た。

 友達だった。できたばかりの、初めての友達。おじさんが私に残してくれた、大事な宝物。

 私は彼女の胸に飛び込んでいった。彼女は何も言わず私を抱きしめてくれた。

 彼女の腕の中で、私はおじさんの言葉を思い出していた。なぜ私を助けてくれたのかと聞いたとき、おじさんが言った言葉を。

 

 

 「あなたが、助けを求めていたからです」